遺書

このブログは私の遺書だ。みんな……遺書を残すものなんだろう?

拝啓・愛着障害の私へ

正式な診断はもらえていませんが、どーも愛着障害くさい。

自分を愛してくれる人がいないと自分に価値がないと思われる。

しかし、その『愛してくれる人』の定義が、むちゃくちゃ。ざっくり挙げると、『私のお願いを何でも叶えてくれて』『私がつらい時は必ず私に寄り添ってくれて』『二十四時間三百六十五日、年中無休でいつでも私を助けてくれる』など。

無理だわ。ふざけんな。こんなん、阿良々木くんだって過労死するぞ。

そして、恋人が自分を大切にしていないと少しでも感じた場合(※私の主観で)、自殺未遂や自傷行為に出る。愛情を試そうとする(いわゆる、試し行動)。結果、恋人はボロボロになる。

なんだこのモンスター。顔面が橋本環奈でも許されないぞ。

 

ここまで読んでいただけた方は、私の価値観が非常に歪んだものであるということがおわかりだろう。

歪んだ価値観を持つ私は、根底に『自分が生きていてもいいはずがない』『自分は誰にも愛されない、愛されるべきではない』という思考(願望)が根付いている。

背景にあるのは幼少期から続く毒親による虐待、モラハラ。過酷な環境に耐え抜くため、私は必死に毒親に適応しようとした。『自分は決してしあわせにはなれない、仕方ない』と思い込むことで、不幸をいなそうとした、不遇に慣れようとした。

 

毒親に適応した私は、二つの相反する願望を持つ様になった。それは『愛されたい』という人間としての貪欲な願いと、『愛されるべきではない』という歪んだ望みだ。

普段はともかく、精神的に不安定になると、後者の考えに逃げ込む。そうして、自分や周囲の人を傷付けることで、歪な望みを叶えようとする。

私はもう成人している。けれど、まだ毒親の影響が強く残っている。幼少期に親から不幸でいることを望まれたから(少なくとも私自身はそう受け取った)、それを忠実に叶えようと努力し続けている。

 

だが、本当は違うのだ。たとえ誰にもしあわせになることを望まれていないとしても、私はしあわせになっていい。私だけは、私が幸福になることを認めてあげなければならない。

 

不運と不幸はイコールじゃない。

親に恵まれなかった。今もつらい環境下にいる。

でも私を一番責めているのは私だ。私は、私から、私を解放してあげるべきだ。

そうでないと、自分自身だけではなく、私を慕ってくれる人たちも幸福になれない。あんまりに報われない。

 

私は今まで、しあわせになることがこわかった。さいわいから逃げていた。だって、幸福になれば、いつかは不幸が「今までのツケを払え」とばかりに借金取りの様にやってくる。

けれど、幸福だったことと、不幸には何の因果関係もない。不幸に襲われたって、それで何もかも消えたりしない。しあわせな思い出はきちんと残る。それを大事にして、また少しずつ明るい方を目指せばいい。

親も不幸も関係ない。私は因果関係をきちんと認めて、受け入れなければいけない。

子供の頃の私は、歪な価値観に染まらないと生きてこられなかった。でももう、親以外にも私を慕ってくれる人がいるので、こんな考え方は不要だ。

もう不幸でい続けようとしなくていいよ。自分の好きな様に生きていいよ。今まで、お疲れ様でした、ちっちゃな私。

 

 

 

……とはいえ、二十数年間続いた価値観を変えるのは難しい。人間はそう簡単に変えられない。

とりあえず少しずつ、無理のない範囲で頑張ろうと思う。自分を認められる様に。他者を幸福にできる私になるために。