遺書

このブログは私の遺書だ。みんな……遺書を残すものなんだろう?

感情教育

恋人と少し話し合った。「お互い立ち上がろうとして転んじゃうから、転ぶ前に自分から友人とかに頼れる様になろう。お互いの不調をお互いに把握できる様になろう」ということでまとまった。

 

けれど、この前言い合ったことについて、「人間関係は正しさだけじゃ回らないよね。あれじゃディベートだ。私は議論なんかしたくない。感情語を使って話した方がいいんじゃないかな」と言うと、彼は「前提として、君が俺を煽ったのおぼえてる?」「俺は理解しかねると思ったことに関して言い返しただけですよ」と反発(?)してきた。まさしく正論だったので、私は言い返せないまま、その話は終わった。

でもよくよく考えると、違う。そうじゃないはずだ。

あの時、彼は本当に『理解しかね』たから怒った訳じゃなくて、私にひどいことを言われて『傷付いた』から怒ったんだ。その根っこにあるのは、明らかに理性ではなく感情だ。なのに、そういう気持ちの話をせずに、理屈や正当性で話を進めようとするから、根っこの部分が捻れてしまうんじゃないの?

感情を話して欲しい。素直に「そういう風に言われるとむっとする」とか「そんなこと言われたら悲しい」って言って欲しい。相手から感情が出てこないから、思わず私も正論で張り合おうとしてしまう。結果、言えば言うほど頭に血が上ってしまい、彼も私も思いやりが欠けたまま、怒りをモチベーションに正論で殴り合うことになる。

 

正論は暴力だ。相手の反論をふさいでしまう。そして正論を振りかざす時、その人の中には十中八九「相手の反論を封じて一方的になじってやろう」という暴力性が潜んでいる。

疑うなら一度Twitterで政治的な話題について検索してみるといい。明らかにロジックとして欠陥がある言説を根拠に、互いに詰り合う悲しい人たちが君の目の前に現れることだろう。彼らの言うことには大抵かなりの矛盾があるが、それを指摘しても自分の非を認めることはまずない。そればかりかこちらを非難してくる。

「信念の価値は金銭に劣る。なぜなら、金銭の価値は万人に等しいが、信念はそれを信じている本人だけのものでしかないからだ」というのは、ヤン・ウェンリーの言葉だが。

そういう、頭でっかちというにも中途半端な連中は、十代の頃に死ぬほど見てきて正直辟易した。私が彼らから得た教訓は、とどのつまり人を動かすのは正しさではなく感情だということだ。彼らは論理で武装したつもりだろうが、結局その奥底にあるのは図星をつかれた際に生じる怒りや憎しみなんだと思う(でなければ自己矛盾を頑なに認めないその姿勢に説明がつかない)。

だから、正論を言う時はまず自分の内側にある感情を疑わなければいけないし、誰かと話をする時は感情をありのままに話すことが大切なのだ。感情的にならない人間なんて、まずそういるもんじゃないしさ。

 

Aqua Timezのボーカルが言っていた。「『顔も名前も性別も年齢も分からないダレカ』が仮に「人間」という模様を描いていたとして、その模様に共感する事ということがあり、『近くで見たら細かい部分は違うが、上空の遠い所から見れば似ている』。そして近づいてみれば違う部分は沢山あるので、分かり合えないという過程は必ず通る。だがそれでも人間は誰もが繋がりたいと思っているはず。」

この考えが私はとても好きだ。人間同士、人種や性別や宗教が違っても、どうしても譲れない信念があっても、根本にあるのは『誰かと分かり合いたい』という切実な願いであるはずだ。そう信じている。人間同士、わかりあえないことの方が多くても、相手が自分の気持ちに同調してもらえれば嬉しいのだ。

 

ましてや恋人同士。好き好んで傷付け合いたい訳じゃない。私だって相手の気持ちを理解して、寄り添いたい。でも気持ちを言ってくれなきゃわからない、寄り添えない。

会議じゃないし、議論じゃない。だから論理や正当性なんてどうでもいい。誰かを傷付けてまで共有すべき理屈なんてここにはないよ。わかちあうなら、正しさより楽しさがいい。

何に対して怒っているのか、悲しんでいるのか、傷付いたのか、そもそもなぜ傷付いているのか。

そういう、ごく当たり前に生ずる感情の話を、私はあの人の口から聞きたいのだ。