遺書

このブログは私の遺書だ。みんな……遺書を残すものなんだろう?

人間になりたい。

このブログを書く時は大抵うつがひどい時。

9日は気圧爆下がりの日だった様だ。影響を受けて鬱がひどい。恋人も調子が悪かった? 私からの追い討ちを受けてダウンしてしまった。

 

この頃はなんとか自治体の公的支援を受けられないかと動いている。ただどうにも行き詰まった感じがあって、現状どん詰まりという感じだ。当てにしていたグループホームも、どうも入居のハードルが高い。

 

姉御気質の年下の友達のTちゃんが付き添って、支援窓口で一緒に話を聞いてくれた。「最悪生活保護があるしどうにかなるでしょ!」と励ましてくれていた彼女も、生活保護受給のハードルの高さを知って、少し憤然としていた。

それでもポジティブなのが彼女で、「しんどかったらうちに来ればいいよ。合い鍵あげるからさ」とまで言ってくれる。ありがたいんだけれど、ひたすら続く根拠の薄い励ましが、今は逆につらかったりする。

 

自分のつらさを、どうせなら社会に知らしめてやりたいという欲求が昔からある。

いじめられた時は遺書を書いて学校の放送室で首を吊ろうとした(未遂に終わったが)。放送委員だったので放送室に入る機会は多かったし、室内にひとりになることもあった。放送室は生徒が出入りできて、内側から鍵をかけられる、数少ない場所だった。学校で子供が自殺すればニュースで報じられるだろう、いじめを受けていたことだって疑惑としては上がるだろう、と。

大人になってからは、自殺という手段で、世間とは言わなくても、自分の周囲に『自分がどれだけつらかったか』を訴えてやりたいと思ってしまっている。中学時代から何も変わらない。

それどころか、この頃は万引きなり何なりして、周囲の人々に自分のつらさを訴えてやろうかと一瞬考えてしまった。現状、私は生活困窮者に対する行政の態度に不信感をおぼえている。このことを世間に訴えかけるには、犯罪が手っ取り早いのではないかという疑念が湧いたのだ。

無論、自分がつらいからと言って他者の平穏を脅かしていいはずがない。法治国家に生きる以上、犯罪が許される道理などどこにもないのだ。ただ、ニュースで報じられる犯罪者の心理が少しわかった気がする。彼らの中には、生きづらさに追い詰められて、そのことをわかってほしくて、犯罪という最悪の表現手段を選んでしまった人がいるのではないか。この世には、ある種のクライシスコールとしての犯罪が存在するのではなかろうか。

考えても詮ないことだ。

いずれにしろ、私は、現在施行されている法律の範囲内で、自分の現状をよりよくするしかない。

血迷った思考は全部低気圧のせいだ。うつ病のせいだ。ホルモンバランスの乱れのせいだ。いざとなったらいちごジャムに生まれ変わればいい。

ああ、こうやって結局死に縋りたがるから、私はちゃんと人間になれないんだろうなあ。

人間になりたい。